真田昌幸(天文16年(1547年)生)は、信濃国(現在の長野県)の在地領主真田幸隆の子として生まれた。
関ヶ原の戦いでは東軍と対立し上田城に籠城、江戸から中山道を通って関ヶ原に向かった徳川秀忠軍の猛攻を受けるもこれを撃退して秀忠軍を足止め、結果として秀忠軍は関ヶ原の戦いの決着に間に合わないという失態を演じることになる。
これによって昌幸の勇名は轟いたが、東軍が勝利したことにより、戦後真田昌幸は高野山への流罪に処せられ、失意のまま慶長16年(1611年)6月4日に病死した。

出典:Wikipedia
あの真田幸村の父
2016年大河ドラマ「真田丸」の主人公でもある真田幸村は徳川家康と戦った勇将として有名であり人気も非常に高いが、その父昌幸も徳川家康に一泡吹かせた知将として、特に戦国マニアの間ではカルト的な人気を誇る武将の一人である。
昌幸の父幸隆もまた智謀に長けた武将として名高かった。現在の上田市あたりを治めていた真田家は、武田信玄に帰属し、上杉謙信などと対峙していた。幸隆の三男であったため、他家に養子に出され当初は家督を継ぐ予定ではなかった昌幸だが、1573年、武田軍が織田信長に大敗を喫したかの長篠の戦いにおいて長兄信綱、次兄昌輝が相次いで戦死したことにより急遽真田家の家督を継ぐことになる。
激動の戦乱の世の中、所領を守り続けた昌幸
真田家の棟梁となった昌幸だったが、長篠の戦いで大打撃を受けた武田家は弱体化の一途をたどり、その後は所領を確保するために奔走することになる。
長篠の戦いから9年後の1582年、主家である武田家はついに滅亡、真田昌幸は織田家に臣従する。しかしその直後、今度は織田信長が本能寺の変によって暗殺されるのである。これにより旧武田領では旧武田家の家臣たちが蜂起するなど大混乱に陥り、これを手に入れようと境を接する上杉家、北条家、徳川家が触手を伸ばしてくることとなった。
旧武田家臣をまとめた昌幸は、当初上杉家につくものの、程なく北条氏に臣従、しかしさらにすぐにこれを裏切り徳川家に臣従、と短期間に帰属先を変える。その後徳川家につきつつも対立を深めたまま、1585年、豊臣秀吉の勢力拡大があったため、豊臣家の家臣となる。
長篠の戦いからわずか3年の間、激動の戦国の世を渡っていかなくてはならなかったわけだが、昌幸は巧みに主家を変え、真田家、そして所領である上田などを守り通すことに成功したのである。
子信之とも袂を分かった関ヶ原の戦い
1590年豊臣秀吉により天下統一が成されたものの、秀吉の死去により世は再び動乱の兆しを見せる。
徳川家康と石田三成の対戦が決定的となった1600年7月、昌幸は子信繁(幸村)とともに石田三成の西軍に付くことを決心する。このとき、徳川家康の養女を妻に迎え、家康から高く評価されていた子の信之は、家康の東軍に付くことを決めたため、親子が敵同士になるという事態を引き起こしてしまうこととなる。
昌幸は、信之からしきりに東軍に付くよう説得されていた。それでも昌幸が西軍についたのは、過去の家康との対立が尾を引いていたためともされる。
西軍についた昌幸だが、東軍徳川秀忠が38000の大軍を率いて江戸から関ヶ原を目指すこととなり、その途上に位置する上田城は、いきなり存亡の危機に立たされることとなった。わずか2000の兵で上田城に立てこもった昌幸、徳川方は上田城を一蹴して秀忠に戦功をあげさせるつもりだったと言われ、傍目にもその優劣は明らかであった。
しかし、昌幸は巧みな戦術によって秀忠の大軍を翻弄、徳川方の史料に「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と残されるほどの惨敗を喫した秀忠軍は、結局上田城の攻略をあきらめて関ヶ原に向かうこととなった。
東軍の大援軍を足止めし、西軍の関ヶ原での戦いをアシストしたはずの昌幸であったが、肝腎の関ヶ原での戦いはこちらも大方の予想を裏切ってわずか一日で東軍が西軍を撃破。一転昌幸は敗戦の将となってしまうのである。
失意の晩年と故郷の墓
関ヶ原の戦いでの敗戦により罪人となった昌幸は、子の信繁(幸村)と共に高野山に蟄居を命じられる。
ある程度の行動の自由はあったと見られ、生活費についても幕臣となった子の信之の援助も受けられていたようだ。しかし、罪人である昌幸への監視は厳しく、失意の日々を送らざる得なかった。
蟄居から11年、昌幸はついに罪を許されることなく、紀伊九度山でその生涯を終える。
死後火葬され、昌幸の遺骨は、昌幸に付き従った家臣の手によって故郷である上田に送られ、真田家廟所である真田山長谷寺に納骨された。
真田山長谷寺には、父幸隆とともに葬られた昌幸の墓が現在も残っている。

出典:上田市ホームページ
この墓は、現在は上田市の文化財に指定され、地元の人々によって守られ続けている。時の権力者と渡り合った上田の英雄は今も地元のヒーローなのである。
なお、昌幸の死後、その子信繁(幸村)は、豊臣家の呼びかけに応じて九度山を脱出、大阪城の豊臣秀頼の下に馳せ参じ、大阪冬・夏の陣で獅子奮迅の活躍を見せた。
関ヶ原で一敗地にまみれたものの、武将として、男としてのプライドを捨てず権力者に屈しなかったこの親子の心意気は、500年以上を経た今でもなお、日本人の心をつかんで離さないのである。
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