夏目 漱石(作家・1867年2月9日(慶応3年1月5日)生 )。本名は夏目金之助(きんのすけ)。
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。1916年(大正5年)12月9日、出血性胃潰瘍のため満49歳で死去。
死後は、生誕の地からもほど近い雑司ヶ谷霊園に葬られた。

100回忌、そして2年後は生誕150年
文豪夏目漱石が死去してから今年(2015年)で99年、つまり100回忌を迎えることになる。
大政奉還の年に誕生した漱石は、激動の明治時代にありながら、「吾輩は猫である」のようなユーモアある作風で、一躍人気作家となった。
その作品は時代を超えて多くの人に愛され、死後70年近くが経過した1984年(昭和59年)には1000円紙幣の肖像画にもなり、今でも漱石の名も顔も知らない人はいないほどではないだろうか。

出典:Wikipedia
遅咲きの大作家
実は、夏目漱石はかなり遅咲きの作家なのだ。
初めて世に送り出した小説は、かの「吾輩は猫である」。この小説が雑誌「ホトトギス」に掲載されたのは1905年、漱石はすでに37歳になっていた。
もっとも、漱石は、東京帝国大学に入学、特待生に選ばれるほどの秀才、卒業後は、高等師範学校(筑波大学の前身)、愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)、第五高等学校(熊本大学の前身)といった名門校で教員を勤め、文部省から英国留学にも派遣された、まさにエリートだった。
しかし、20代の頃からノイローゼのような症状に悩まされていた漱石は、その症状を和らげるためにと、交流のあった俳人の高浜虚子のすすめで小説を書くようになったのだ。
そこから、わずか10年と少しの間に、20以上の小説を世に送り出したのだった。
体を蝕んだ胃潰瘍と早過ぎる死
漱石は1910年、43歳の時に、胃潰瘍で大量吐血をし、危篤状態に陥った。
一命は取り留めたものの、その後も胃潰瘍に悩まされ、6年後に49歳の若さで命を落とした。戒名は、文献院古道漱石居士。
早稲田で生まれ、結婚後は本郷区駒込千駄木町(現在の文京区向丘)に住むなど、東京の文京区近辺に縁の深かった漱石は、死後、その近傍に位置する雑司ヶ谷霊園に葬られた。

出典:Wikipedia
雑司ヶ谷霊園は、実は漱石の小説「こころ」でも登場する舞台のひとつ。主人公が、いつも友人の墓参りに行く「先生」を訪ねて行ったのがまさにこの雑司ヶ谷霊園だ。
漱石の墓は、周りと比べてもかなり大きい立派なものなので、かなり目を引くことは間違いない。
幼くして亡くなった三女とともに眠るこの墓には、今も夏目漱石を慕うファンたちが多く訪れるという。