日本に「洋画」を広め、近代日本の美術に大きな足跡を残し「近代洋画の父」とも呼ばれる黒田清輝(くろだせいき。本名は「きよてる」)が、1924年7月15日、58歳で死去しました。持病の狭心症に喘息を併発したためと言われています。
黒田清輝は、それまで日本になかった外光表現を持ち込み、明るく品のある画風で知られています。
中でも、1897年に発表された「湖畔」は、今でも美術の教科書などに取り上げられ、ご存じの方も多いでしょう。

黒田清輝は、1866年島津藩士であった黒田清兼の子として生まれ、5歳の時伯父黒田清綱の養子となります。
清綱は明治維新で数多くの武功を上げ、維新後は明治政府の要職を担い後に子爵に任じられたほどの人物でした。清輝は当然その跡継ぎとして期待されていたため、政治家となるべく法律やフランス語の勉学に励み、17歳でフランスに留学することになるのです。
ところが、その留学先のフランスで、運命のいたずらが待っていたのです。
法律家志望から画家志望へ
清輝は絵を趣味にしており、フランスにも絵具を持参して絵を描いていたところ、現地に住んでいた画家の山本芳翠らに才能を認められ画家になることを勧められます。
そして、「君は法律なんかを学ぶよりも絵を勉強する方がよほど日本のためにもなる」とまで言われた清輝はついにその気になり、そのままフランスで絵を学ぶことにし、10年の留学ののち、画家となって日本に帰国します。
数奇な運命を経て画家となった清輝は、日本に新しい洋画の技術を持ち込み、センセーションを巻き起こします。
洋画家の養成にも励む一方で、自らは裸婦を描いた絵を発表し、そういった裸体画を春画として嫌悪する日本の社会と戦うなど、美術界の発展に大きく貢献しました。
そして政治家としても
清輝は、養父清綱の死後は後を継いで子爵となり、貴族院議員として政治家も兼ねるようになります。
1900年にパリ万博で渡仏し、美術家を取り巻く社会的環境が重要であることに気付いた清輝は、帰国後、美術展覧会の開設や美術館設立などを政府に建言し、美術界全体の活性化にも努めました。
美術家・政治家として奔走してきた清輝ですが、無理がたたったのか、持病の狭心症に喘息を併発して、1924年7月15日、志半ば58歳で死去します。
清輝が最後に奔走した仕事は、直前に開催されたフランス現代美術展覧会でドダン作「接吻」などが、風紀上問題ありとして当局から撤去を命ぜられたことへの反対運動でした。
清輝は、芸術への無理解という当時日本にそびえていた時代の壁に立ち向かい、日本美術界にすべてを捧げたのでした。
墓所は長谷寺に
清輝は死後、東京都港区西麻布にある長谷寺に葬られました。
長谷寺の墓地の本殿のそば、清輝のお墓は、伯父であり養父でもある黒田清綱のお墓の隣に建てられています。墓所の入口には二人の足跡を記した石碑も建てられています。
広い墓所には、他のお墓とは趣を異にする、ドーム型の墓石が二つ立っています。
入口から見て手前が黒田清輝夫妻、奥が養父母である黒田清綱夫妻のお墓です。
お墓は、長谷寺の本堂と近くの木々に囲まれて、日中も木陰になるような涼やかな場所に、ひっそりと立っています。