一周忌に愛妻のお手製骨壺に納骨された中村勘三郎(歌舞伎俳優・2012年12月5日没・西徳寺)

2012年(平成24年)12月5日午前2時33分、急性呼吸窮迫症候群のため、東京都文京区の日本医科大学付属病院で亡くなった。享年満57歳。
死後、父である十七世勘三郎が眠る光照山西徳寺に葬られた。

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生前の中村勘三郎
出典:映画「中村勘三郎」予告編より

「型破り」な名優の早すぎる死

勘三郎は、1955年(昭和30年)5月30日、十七代目中村勘三郎の長子として東京都に生まれた。
3歳で早くも初舞台を踏み、「中村勘九郎」を襲名した。(以後46年間、「勘九郎」を名乗ることとなる。)

子役時代以来の盟友三津五郎と共に、空前の歌舞伎ブームを到来させた。それだけでなく、テレビにも進出し、「今宵も勘九郎」といったレギュラー番組を通じてさらに多く歌舞伎ファンを集め、歌舞伎の伝道師とも呼ばれた。
歌舞伎役者として、江戸の世話物から上方狂言、時代物など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたのみならず、現代劇の劇作家、演出家らと組んだ新歌舞伎への取り組み、現代劇への出演なども精力的に行い、「歌舞伎界の風雲児」の名を欲しいままにした。

平成6年に始まった渋谷のシアター・コクーンでのコクーン歌舞伎では新劇人串田和美と組んで、「四谷怪談」「桜姫」といった古典に新しい演出を試みるなどし、新奇な試みとしてマスコミにも大きく取り上げられた。
また、2000年には、組立式の仮設劇場という、従来誰も考えつかなかった発想から平成中村座を立ち上げた。東京の浅草・隅田公園ではじまった平成中村座は、大阪や名古屋、果てはニューヨークにまで出現し、大いに人気を博した。

数々の進取的な取り組みを行った勘三郎だが、古典の型に関するこだわりもすさまじく、和事味のある二枚目の役々は、一挙手一投足も疎かにすることなく教えを守り続けていた。それは、「型を守ってこその型破り」という勘三郎の信念があったからと言われる。

2012年(平成24年)5月に食道癌が見つかり休養に入った。一旦持ち直したかに見えたが、その後肺疾患にかかり、12月5日、翌年4月の新生歌舞伎座こけら落としを前にして若すぎる生涯を終えた。

納骨が行われた一周忌

勘三郎は、中村屋代々の菩提寺である台東区竜泉の西徳寺に葬られた。法名は「演暢院釋明鏡大居士」。

翌年11月27日には、その西徳寺で一周忌法要および納骨式が営まれた。その日は妻波野好江さんとの33回目の結婚記念日だった。
遺骨は火葬の際に納骨した骨壺ではなく、多摩美術大学名誉教授である陶芸家・中村錦平氏のアドバイスのもと、好江夫人が自ら制作した骨壺に納められた。中村屋の家紋でもあるイチョウの葉を模したデザインだそうだ。

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光照山西徳寺