井伊直弼と言えば、桜田門外の変で暗殺された大老、というのが一番有名な表現でしょうか。
何せ、国政のトップですから、今で言えば総理大臣が暗殺されるくらいの衝撃的な出来事です。
井伊直弼は、幕府の実権をその手に握ると、日米修好通商条約を朝廷の許可なく勝手に締結し開国、そのやり方に反発した諸侯や大名・幕臣達を一気に粛清(いわゆる「安政の大獄」)し、幕府の専横を極めた奸臣……というのが一般的なイメージでしょうか。
2018年大河ドラマ「西郷どん」でも、井伊直弼が登場します。佐野史郎演じる井伊直弼は、幕府を改革しようとする西郷吉之介(隆盛)や島津斉彬、一橋慶喜(後の徳川慶喜)、橋本左内と言った大名・志士達の野望を打ち砕き大きな壁として立ちはだかり、その冷徹なまでの眼差しと振舞いは正にそのイメージ通りの見事な悪役と言えるでしょう。
本当は有能な人だった!?

井伊直弼は、徳川四天王の一人井伊直政を初代とする井伊家に生まれました。
井伊家と言えば、大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公直虎で有名になったあの井伊家です。
元は遠江のしがない豪族でしたが、徳川家康のもと大功を立てて出世した井伊直政はその後250年以上続く彦根藩の基礎を築き上げます。
幕府の臨時の最高職である「大老」になることができるのは井伊家を含めたわずか四家のみ、しかも初代大老も井伊家の2代目当主直孝でした。
さて直弼ですが、その彦根藩の13代藩主直中のなんと十四男として生まれます。
井伊家当主の跡継ぎになる見込みはほとんどなく、多くの兄は他家に養子として出される中、兄弟が多すぎたため養子の引き受け先さえなく、井伊家内で微禄を受けながら茶道や芸術・勉学に励むという世捨て人のような生活を送っていたのです。
当主の座、そして大老へ

出典:Wikipedia
ところが世の中分からないもの、井伊家を継いだ兄達が相次いで亡くなると、井伊家に残っていた直弼に当主のお鉢が回ってくることになるのです。
もっとも、偶然の結果とはいえ、直弼は聡明の誉れも高く、当主を継ぐことに周囲も異論はなかったようです。
彦根藩主となった直弼は藩政の改革に手腕を発揮、ペリー来航などを機に幕府の中でも頭角を現し、老中首座だった阿部正弘が病死したこともあり幕府の実権を掌握、ついには大老に就任します。
最初に書いたとおり、悪役のイメージが強い直弼ですが、実際にかなり決断力に富んだ人物だったようで、結果的に直弼の数々の決断が日本の開国そして明治維新を早めたという意見もあります。
また当時すでに力を失い屋台骨が揺らぎつつあった江戸幕府に対する武士たちの不満を一身に受け、日本が変わるきっかけを作ったとも言えるでしょう。
桜田門で無念の最期……
直弼は、水戸や越前・薩摩など有力諸侯が幕政に介入してくるようになったため、旧来のような親藩・譜代大名が中心となって政治を執り行う江戸幕府を取り戻そうとしていたとも言われます。
そのため安政の大獄ではその有力諸侯を一気に弾圧したものの、最早それは時代が求めていたものではなかったのかもしれません。
弾圧を受け不満を募らせた水戸藩士達は直弼の暗殺を計画、そしてそれが江戸城の桜田門外で決行されてしまいます。
直弼の首を取ったのは、西郷隆盛とも縁が深い有村俊斎(海江田信義)の弟である有村次左衛門でした。
Googleストリートビューより
直弼は44年の生涯を閉じます。
この事件をきっかけに、日本は明治維新に向けてさらに大きく動き出すことになるのです。
豪徳寺(東京都世田谷区)の井伊家墓所
井伊直弼のお墓の一つが、東京都世田谷区の豪徳寺に建てられています。
豪徳寺は2代目井伊直孝のときに井伊家の菩提寺となりました。
直孝が猫に招かれて寺で休息を取っていたところ大雨になり濡れずに済んだというエピソードが有名で、これにより招き猫が生まれたとも言われています。
おんな城主直虎が守った井伊家 ~お墓は招き猫発祥の豪徳寺
山門をくぐると左手が墓地になっており、その一角に、と言ってもかなり広いエリアですが、井伊家の墓所があり、一般に公開されています。

墓所の参道を真っ直ぐ進んだ突き当り正面には2代目直孝のお墓が。
その左側には広い墓所が広がり……

とても広く500坪くらいはあるだろうか
上の写真の左一番奥が直弼の墓。中心近くから代々の墓が建っているため、13代目である直弼はかなり奥になってしまっています。
石碑には「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」の文字。
「正四位上(しょうしいのじょう)(前(さきの))羽林中郎将」が」が最終的な官位として刻まれています。
「宗観院柳暁覚翁」が戒名となります。
正四位は、武家では極一部の大名にしか与えられない位です。江戸幕府内での頂点を極めたと言えるでしょう。
墓所内には、直弼を守って討ち死にした家来達のお墓もあります。
桜田門外の変のとき、直弼の供をしていたのは60名ほど。水戸藩士の手にかかり命を落としてしまったそのうち8人が、ここに祀られているのです。
ちなみに、命が助かった他の武士達ですが、彼らには後年、主君を守れなかった罪を問われ、重傷者は流罪、軽傷者は切腹、無傷だった者はなんと斬罪が言い渡されました。
時代とはいえ何とも恐ろしいことです…。
直弼の死後、井伊家は子の直憲(なおのり)が跡を継ぎます。江戸幕府が倒れた後、明治になっても井伊家は伯爵家となり続いていきます。
孫の直忠は彦根城を彦根市に寄贈、彦根城は後に国宝に指定されます。
曽孫の直愛(なおよし)は彦根市長を務め、現当主の井伊岳夫(直岳)氏は彦根城博物館の館長を務めるなど、今に至るまで井伊家の人々は彦根の名士として活躍されています。
世田谷の住宅地にある緑のオアシス豪徳寺

豪徳寺は、かつての世田谷城のそばに位置し、周囲は今では高級住宅地となっています。
今も広い敷地には多くの自然も残り、また、井伊家の菩提寺ということもあって世田谷城址公園とともに歴史ファンが多く訪れる場所でもあります。

招き猫が生まれたところとしても有名です。
また、梅の名所としても有名で、春には多くの人が訪れます。
5月頃になると、境内で実った梅の実が寺務所で販売されていることもあります。
豪徳寺は、チンチン電車の風情を残す東急世田谷線に揺られ宮の坂駅で下車、徒歩すぐです。
大谿山 豪徳寺(招き猫発祥の寺)

青山霊園で「西郷どん」ゆかりの仲間に出会うお墓巡り
たった10年の間ですが、お墓を持つ人、お寺さん、民間の墓地運営者など多くの方とお話しするにつけ、世の中のお墓事情は日に日にどんどん変わっていることを実感します。
誰もが同じような場所に同じような墓を建て、同じように子孫に引き継いでいく、そんな時代はもう終わりました。
「最近は先祖を敬う気持ちが薄れているのでは?先祖をもっと大切に。」というお寺や墓地の関係者の話も耳にします。
しかし、何より大切にしなければならないのは、今生きている人の人生です。
年を取った人が安心して余生を送ることができ、遺される人も安心して見送ることができる、お墓を通じて、そんな皆様の人生のお手伝いができればと思っております。