忠犬ハチ公の碑(青山霊園・1935年3月8日没)

渋谷駅の待ち合わせのメッカとして、東京の人は元より全国でも有名なハチ公前。
モデルとなったハチ公は、戦前より絶大な人気を誇り、死後数十年を経て映画化、21世紀になってからはなんとハリウッドでも映画化されるなど、時代も国境も超えて愛されています。

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渋谷駅ハチ公像
出典:wikipedia.org
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生前のハチ
出典:www2.g-tak.gsn.ed.jp

青山霊園にひっそりとたたずむハチ公の碑

都立青山霊園の北東のエリア、通路に沿った並木のそばに、忠犬ハチ公の碑が建てられています。
ここは、正確にはハチ公のお墓ではなく、飼い主であった上野英三郎氏のお墓です。そう、ハチ公が渋谷駅で何年も帰りを待ったという飼い主その人です。
その上野氏のお墓の敷地の中に、ハチ公を祀る石祠が建てられています。

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ハチ公自身は、実は死後東京帝国大学で解剖され、剥製が国立科学博物館に、臓器標本は東京大学農学資料館に展示されており、今でも一般公開されています。

早すぎる主人の死

上野氏は、青山霊園にお墓があることからも分かるように、実はすごい人で、明治・大正時代に農業土木学研究の第一人者として、耕地の整理などに大きな功績を残し、東大教授まで務めました。
当時日本では数少ない農業土木の研究者として耕地整理の研究を進めながらも、農業土木技術員養成にも力を注ぎ、3,000人を越える技術者の育成したそうです。上野氏から指導を受けた技術者は、1923年(大正12年)の関東大震災後の帝都復興事業において重要な役割を果たしたと言います。

そんな上野先生は大の犬好き。秋田犬を飼うことが念願だった先生は、生後間もないハチを引き取り、先に飼っていた2匹の犬と共に大変に可愛がりました。しかし、そのわずか1年4ヶ月後、上野先生が脳溢血のため、突然亡くなってしまいます。
このとき、ハチはまだ1歳と6か月。幼くして最愛の主人を失ったハチは、3日間何も食べ物を口にしなかったと言います。

最初は歓迎されなかった忠犬

ハチは、先生の死後しばらくして、上野先生が帰宅する時間帯に渋谷駅に出没するようになります。しかし、当初の人々の扱いは、忠犬として可愛がるなどというものからはほど遠く、むしろ通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子供にいたずらをされたりという日々でした。
それを哀れんだ日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉氏は、ハチ公が飼い主の帰りを待つ悲しい事情を朝日新聞に投稿したところ、その記事が大きく取り扱われ、ハチは一転人気者になりました。上野先生が亡くなってから7年も経った後のことです。

渋谷のハチ公像は生前すでに作られていた

一躍人気者となったハチは、人々から食べ物を与えられることも増え、さらには渋谷駅は、ハチが駅で寝泊まりすることも認めるようになりました。
また、主人に忠義を尽くすという姿は、戦前のご時世には人々の模範としてたびたび取り上げられ、その人気は留まるところを知らない状況でした。
ついにはハチの銅像を作ろうという話に発展し、ハチがまだ生きていた1934年(昭和9年)に完成しました。
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ハチの一周忌でにぎわうハチ公像
出典:wikipedia.org

ハチはその完成を見届けると、翌1935年(昭和10年)3月8日、静かに息を引き取ります。満11歳でした。

渋谷のハチ公像は、第二次世界大戦が始まると金属供出のため、一時的になくなってしまいすが、終戦の3年後、1948年(昭和23年)8月に再建されました。現在渋谷駅前にたたずむ像は、この2代目ハチ公像なのです。

最初の銅像の完成からすでに80年、若者の街としてにぎわう渋谷を、今もハチ公は見守り続けています。

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