都心のお寺は恵まれているのか?(2) ~高輪のお寺の苦悩と矜持~

400年の歴史を誇る寺町とバブルの波

 最初にも述べたが、圓眞寺が接する「二本榎通り」沿いは、江戸時代初期に寺院が相次いで建立され寺町を形成してきた。
 江戸から東海道を下ると、泉岳寺のあたりに大木戸門が建っており、そこまでが江戸だった。門を出たすぐのところ、現在の品川駅あたりまで来ると山が海に迫ってくる。つまり、ここは敵が江戸に攻め上って来たときに守りやすい場所だったため、江戸幕府は山の上に寺を多く建て有事の際にはそこに兵を潜ませておくつもりだった、とも言われている。

enshinji-intv0013

 江戸時代の地図と見比べると、今でも多くの寺社が残っていることに驚かされる。
 二本榎通りは商店街でもあり、昭和時代は圓眞寺から商店街を三田方面に歩き、端まで行って戻って買い物をすると、ちょうど必要なものがすべて揃う、庶民的な街だったそうだ。
 しかし、30年前にバブルが到来すると、街並みも一変してしまう。

寄せるバブルの波

 高輪近辺も例に漏れず地価が暴騰、土地を手放す人が続出したそうだ。「お肉屋さんはン億円、八百屋さんはン億円、というような話をよく聞きました。檀家さんも引越した人は多いですね。」(稲田住職)
 今や、商店街に残るお店は、豆腐屋、洋服屋など数えるほどしかない。圓眞寺のすぐ近くにあったお寺は移転し、そこに高級高層マンションが建ったのをはじめ、見回せば高級マンションがあちこちに建ち並び、街の風景は一変してしまった。

 圓眞寺もバブルの波に乗っかって不動産事業を行うとか、そういう手はなかったのだろうか。
「不動産に関する話はいくつでもありました。入口から境内までのスペースにアパートを建てないか、という話もありました。実際、通りの並びのお寺さんではアパート事業をやってらっしゃるところもあります。うちも、やれば多少なりお金が入ったかもしれません。ただその結果、あそこのお寺はきっとお金を持ってるんだ、と周りや檀家さんから思われてしまうことは嫌だったんですよね。」住職は簡単そうにおっしゃるが、バブル時代は「財テク」という言葉が大流行し、猫も杓子もお金を増やそうと盛り上がっていた時代。代々住職が兼業でお寺を支えてきた圓眞寺であれば、多少のお金が入ろうとも周りは許してくれたんじゃないかと思ってしまう。しかし、先代住職と現住職は、結局今まで不動産事業は一切行ってこなかった。

 住職は、「そういうことをしなくても、なんとかやっていけるから、というのはあります。」とおっしゃる。さすが都会のお寺、お布施も多いのかと思いきや「私たち家族がギリギリ食べていけるくらいでしょうか。」とのこと。
 現在檀家さんは300軒ほど。しかし、先ほど述べたようにバブル時代を経て、多くの檀家さんは家を売ったりまたは住めなくなってしまったりで遠くに引越してしまい、今も近所にお住まいの檀家さんは10軒もいないそうだ。これは、都会のお寺特有の悩みと言えるかもしれない。

 しかし、現在、お寺は苦境に立たされている。新たな檀家などなかなか望むべくもなく、若い人は寺から離れていく。特に、地方は人口の減少もあり檀家の減少も激しい。檀家が少なくなったお寺では、住職を専任で置くことさえできず、複数のお寺の住職を掛け持ちしているお坊さんが少なくないそうだ。
 「それに比べたら、うちのお寺はとても恵まれています。場所も良いですしね。家族でお墓参りに来て、そのあと品川や六本木に遊びに行くこともできるし、泊まるところにも不自由しませんから。」とはいえ、このまま、今まで通りのお寺経営ではやっていけなくなるであろうことは住職も承知の上。「いけるところまで今のやり方でやってみようかな、と思っています。」

>>次回に続く