一万円札の顔となってはや30年以上、日本人なら知らない人はいないであろう福澤諭吉、「学問のすすめ」の著者、慶応義塾の創設者としても有名だ。
福澤諭吉は、 1901年(明治34年)2月3日、満66歳のときに脳溢血のため東京で亡くなった。
諭吉の墓は、東京都港区元麻布にある麻布山善福寺の墓地にある。
この善福寺のお墓、できたのは昭和52年(1977年)のこと、亡くなってから76年も経過してのことだ。
実は、福澤諭吉は一度改葬されているのだ。

菩提寺がありながら自分の好きな墓を選んだ自由人諭吉
諭吉が亡くなった日の5日後となる1901年2月8日、福澤家の菩提寺でもある善福寺において諭吉の葬儀が執り行われた。慶応義塾の塾生を始めなんと1万5000人もの会葬者が葬列に加わったそうだ。
しかし、その葬儀の後諭吉の柩は善福寺に埋葬されることはなく、白金大崎村(現在の品川区上大崎)にある本願寺に運ばれ、本願寺が管理する廃寺(正福寺)の墓地に埋葬された。
諭吉が生前、周辺の眺望が良かったことから気に入ったとも、慶応幼稚舎を創立した諭吉門下生和田義郎の墓があったからとも言われるが、生前にその墓地を手に入れていたという。場所は現在の慶応大学三田キャンパス内にあった諭吉邸から約3km、山手線目黒駅からは歩いて15分ほど、高級住宅街として有名な池田山の近くに位置する。明治43年(1910年)に常光寺が廃寺の寺跡を譲り受け移転してきた以降は常光寺の墓地となった。
ちなみに、葬儀と墓地が別のお寺、というのは、当時も今もかなり珍しいことだ。檀那寺などにとらわれない自由人福澤諭吉の一端がここにも現れている。

宗派の違いが生んだ改葬劇
さて、この諭吉の選んだお墓が、数十年の時を経て福澤家に一騒動を巻き起こすこととなる。
常光寺周辺は、かつては皇后陛下の実家もあったほどの高級住宅街だが、常光寺近辺には隣地の本願寺を含めて9つの寺が集まる寺町になっている。これらの寺町は、元々芝公園にある増上寺の子院が移転してできたものであり、本願寺、常光寺を含めてすべて浄土宗を宗派とする。
一方、福澤家の菩提寺である善福寺は浄土真宗。
常光寺は本堂の建て替えに際して、墓の所有者は浄土宗信徒であることを条件としてしまったため、浄土真宗の福澤家は常光寺にお墓を持てなくなってしまったのだ。
結果、福澤家は昭和52年(1977年)、墓を移転し諭吉を改葬することを決める。
改葬先は菩提寺の善福寺となった。
現在も善福寺には諭吉の墓があり、毎年2月3日の諭吉の命日(雪池忌(ゆきちき)と呼ばれているそうだ)には、慶応の塾生やOBなど、相当な数の人が墓参りに訪れる。
常光寺には、慶應義塾の手により、建築家谷口吉郎博士の設計による「福澤諭吉先生永眠之地記念脾」が建てられ、今でも諭吉の墓の面影を見ることができる。
なんとミイラに!?

この改葬劇、実は意外なことで有名になった。
常光寺の諭吉の墓を掘り起こしたところ、地下深くから現れた諭吉の柩は地下水に浸った状態で、蓋を開けると中には蝋のような状態にミイラ化した福澤諭吉の遺体が横たわっていたのだそうだ。
当時の埋葬法が土葬であり、柩が外気から遮断され冷たい地下水で満たされていたなどの条件が重なって起こった奇跡だった。
遺体は、学術的な見地から残すという選択もあったようだが、結局遺族の意向で火葬され、現在は遺骨となり善福寺で静かに眠っている。