都立霊園はどこも自然にあふれ、きれいな桜並木が整備されている、実は隠れた名花見スポットです。
ござを広げてお酒を飲みながら、というわけにはもちろんいきませんが、霊園各所には休憩用のベンチもあり、ゆったりくつろぎながら静かに都会の春を感じるお花見も乙なものです。
今回は、東京都港区の青山霊園をご紹介します。霊園も公式に推奨している「著名人墓所めぐり『坂の上の雲』コース」というのがあるのですが、その『坂の上の雲』に登場する有名人のお墓と桜を楽しめるコースをご紹介します。
青山霊園を北から南へ縦断:所要時間約60分
東京メトロ銀座線外苑前駅からほど近い北中央入口からスタート、桜やお墓を見ながら霊園を縦断し、南中央入口をゴールとする、行程約1.8kmのコースです。
外苑前駅から徒歩約7分、北中央入口に来るとまっすぐ前に早速桜並木が見えてきます。この桜並木の道が霊園の南端まで約800メートル、最初から最後まで見事な桜のトンネルが続く道です(本稿では「南北通り」と呼ぶことにします)。

園内マップや有名人のお墓紹介のパンフレットなどがありますので、もらっておくと良いでしょう。
お手洗いは、管理事務所を含めて霊園内は三か所、こちらで済ませることをお勧めします。
また、霊園内は飲み物の自動販売機がありません。必要であればここで調達しましょう。
さて、管理事務所を通り過ぎると、右側に一際大きな石碑が見えます。4メートル近くはあろうかという、このエリアでは群を抜いて大きな石碑が建っているのが、「野津道貫(のづ みちつら)」の墓所です。

野津道貫(1841年12月17日~1908年10月18日)は、薩摩藩の出身、戊辰戦争で活躍したのを皮切りに、西南戦争や日清戦争でも活躍、日本陸軍上層部の一人となりました。坂の上の雲では、日露戦争第4軍司令官として登場します。1908年に67歳で亡くなりますが、そのときの階級は元帥陸軍大将、侯爵家にもなるなど、軍人として最大級の出世を成し遂げた人物の一人です。
青山霊園のお墓もそれに違わず立派で、今でも木々がきれいに剪定され、さながら小さな庭園のような様相を呈しています。
さあ、南北通り方面に戻り、桜を眺めながら通りの反対、東側に進みましょう。
突き当りまで進むと、かの有名な将軍の名を冠した「乃木将軍通り」に交わります。そう、この通りに乃木将軍のお墓があるんです。左にしばらく進むと、塀に囲まれた立派な区画が見えてきます。
ここが、将軍「乃木希典(のぎ まれすけ)」のお墓です。
残念ながら普段は門が施錠されておりお墓の前まで行くことはできませんので、外からお参りしましょう。
乃木希典は、日露戦争では旅順を陥落させるなど、第一級の戦功を上げ、日本中で大人から子供まで知らない人はいないほどの有名人となりました、しかし、本人は、旅順で多くの戦死者を出してしまったことを生涯悔やんでいたと言われ、二人の息子も日露戦争で失ってしまいます。
乃木将軍の謙虚な人柄を表すように、明治時代の偉人としては珍しく、お墓は青山霊園の隅の方にひっそりとたたずんでいます。そこで、将軍は、愛妻、若くして戦死した二人の息子と共に、静かに眠っているのです。
乃木将軍のお墓から乃木将軍通りを南に進むと、10区と12区の間に東三通りという少し広めの道があり、ここが桜並木の見事な道の一つ。広場やベンチがありますので、ゆっくり桜を堪能することができます。
この東三通りの南側が、「警視庁墓地」と呼ばれる一帯で、警察関係の偉人が多く集まる一角です。この一角には、坂の上の雲に登場する人物のお墓も数多く建っています。
○ 加藤友三郎(かとう ともさぶろう 1861~1923)
広島藩の下級藩士として生まれながら、海軍兵学校を卒業後海軍士官として順調に出世、日露戦争では、東郷平八郎のもと連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。その後、海軍次官などを経て、海軍大臣に就任、1922年には内閣総理大臣にまでなった人物。
それほど有名ではないが、1921年(大正10年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席し諸外国から称賛されたり、協調外交・軍縮を積極的に進めた有能な人物であった。
○ 小村壽太郎(こむら じゅたろう 1855~1911)
日向国(宮崎県)出身、大学南校(東京大学の前身)を卒業後、第1回文部省海外留学生としてハーバード大学へ留学、帰国後は官僚となり、1884年に外務省へ転出して以降は外交官として活躍する。
1901年には第一次桂太郎内閣で外務大臣に就任、外務大臣として日露戦争に臨むこととなる。
日露戦争に先立つ1902年には日英同盟締結に尽力、日露戦争後のポーツマス会議では日本全権としてロシアと交渉、ポーツマス条約を調印した。また、第2次桂内閣の外務大臣に再任した際は、幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正の交渉を行い、関税自主権の回復を果たすなど、明治を代表する外交官の一人である。
青山霊園の墓所は、加藤友三郎と並びやや小高い丘の上にあり、入口には鳥居も立っている立派なお墓。入口には「明治の外務大臣 宮崎県日南市出身」と書かれた標も建てられている。
○ 島村速雄(しまむら はやお 1858~1923)
土佐藩の郷士の子として生まれる。海軍兵学校では加藤友三郎と同期であり、生涯の親友となった。兵学校では名が知れ渡る程の秀才だったという。海軍士官となり、明治26年(1893年)3月13日には常備艦隊の参謀に任命されるという大出世を遂げ、日露戦争では連合艦隊において幕僚のトップである参謀長となった。
坂の上の雲の主人公・秋山好古の兄真之の上官でもあった。
「軍事の天才」と言われたが、海軍戦略戦術の研究資料も乏しい中、戦術をまとめた論文を発表したり戦術の実地演習の演習法を考案したりと海軍の戦術の進歩に貢献した努力家でもあった。
(→続く(近日公開予定))