最後まで「高倉健」だった最後の銀幕スター(俳優・2014年11月10日没)

昭和の映画史に輝かしい名を残し、「最後の銀幕スター」と呼ばれた。悪性リンパ腫により、2014年(平成26年)11月10日東京都内の病院で死去。享年83歳。
晩年まで俳優業を引退することはなく、亡くなったときも主演の次回作映画「風に吹かれて(仮題)」の準備をしていたが、結局撮影前に高倉健が亡くなったため、映画化されることはなかった。

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高倉健
出典:www.flickr.com/photos/7630113

偶然だった俳優への道

高倉健は、元々俳優を目指していたわけではない。
福岡県に生まれ、地元の東筑高校を卒業後、貿易商を目指して明治大学商学部に入学した。同大学を卒業後、大学時代の知人のつてで当時美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるために面接を受けたが、そこに居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社することとなったのである。
演技経験はもちろん全くなかったが、入社の翌1956年には、すでに映画『電光空手打ち』で主役デビューを果たした。

当初は時代劇の助演が多かったが、1960年代からは、任侠映画、いわゆるヤクザ映画への出演が続き、硬派でストイックなイメージを確立、一躍東映の看板スターに登りつめた。

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網走番外地 吹雪の斗争のワンシーン
出典:映画「網走番外地 吹雪の斗争」より

東映を退社しヤクザのイメージからの脱却

1976年には東映を退社、元々ヤクザ役イメージが固定してしまうことに懸念を抱いていた高倉は、これを機に念願であったそれ以外の役柄に次々と挑戦する。
1976年に主演した「君よ憤怒の河を渉れ」を皮切りに、1977年には「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」と次々に主演ヒット作を生み、名俳優の名を揺るぎないものとした。

その後も、「南極物語」(1983年)、「ブラックレイン」「あ・うん」(1989年)、「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)と、年代を超えて、また世代を問わず愛された作品に出演した。

晩年まで衰えなかった演技への熱意

高倉は、晩年まで俳優業への熱意を失わず、80歳を過ぎていた2012年8月には、なんと205本目の主演作品となる映画「あなたへ」で6年ぶりとなる銀幕復帰を果たした。
その後も、次回作となる予定であった主演作「風に吹かれて(仮題)」の準備をしていたものの、再びの出演の願いはかなわず、撮影を前にした2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなった。
高倉は以前に前立腺癌を患っており、一旦は手術を受けて寛解したが、その後の定期検診で悪性リンパ腫が発見されて療養していたが、亡くなる数日前に容体が急変、以降意識が戻ることはなかった。

生前から準備されていた鎌倉霊園のお墓

高倉健の墓は、横浜横須賀道路朝比奈インターからほど近くの山の中に開設された鎌倉霊園に建てられていた。
鎌倉霊園は、開園から半世紀の歴史ほこる民営の大規模公園墓地で、高級霊園としても名高く、多くの有名人・芸能人のお墓があることでも知られている。

高倉健は、同じ俳優の萬屋錦之介のすすめで、自分のお墓を生前に準備していたと言われている。
生前に、高倉自身の墓石はなかったものの、元妻の江利チエミとの間で授かり流産した子を弔う高さ1mの水子地蔵が安置されていた。

(その後、この鎌倉霊園の墓は墓じまいがされた。現在の遺骨の改葬先は明らかにされていないが、鎌倉市の浄土宗大本山・光明寺に、2017年に墓碑が建てられている。)

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